「TRANS BODY BONDAGE」



昔、ミケランジェロの彫刻作品で、「奴隷」という作品を見た時、私はその作品が醸し出す雰囲気とタイ

トルとのギャップに何か強い印象を受けた記憶がある。

「奴隷」という囚われの身である彼の顔に浮かんでいるのは、屈辱や苦悩といった表情よりもどこか恍惚

の放心状態、苦痛というよりも快楽を受けているかのような顔つきに見えたのだ。その様子は、とても困

難に陥った姿には見えず、むしろ、その他だら名ぬ雰囲気は表情にとどまらず、体の動きやしぐさによっ

て非常にセクシャルな空気を漂わしたものに見えてくるのであった。

囚われたわが身から逃れるべくひねった腰や、力尽きようとする体をようやくささえている頼りなげな足

元などに、「奴隷」である彼はどこかその状態に甘んじて受け入れているかのように感じられる。まるで、

苦悩を受け入れるこのによってしか、その苦痛から開放されないことを彼自身もう十分わかっているかの

ように、彼は苦痛に対して無防備でいることを選んでしまっている様子なのだ。セクシャルな雰囲気は、

その無防備な無抵抗な姿から立ちのぼってきているように感じられた。

”緊縛”という行為を見守ることになった時、あのミケランジェロの作品に対して感じていた「果たして

囚われの身であることによる苦痛から、一体快楽というものがどのように引き出されてくるのだろうか」

という思いがよみがえってきた。

そして、”緊縛”という拘束された状態から”苦痛と快楽”という人が持つ欲望の深さを垣間見ることが

できるだろうか、という思惑と多少の好奇心を抱きつつ撮影に臨んだのだ。



しかし、この一見非日常的に見られる行為を見守りつつも、ふと頭をもたげてきたことは、「そもそも人

の欲望の深さなど測ることなどできるのだろうか」という疑問であった。それは、「深さというよりも欲

望をいかにコントロールするかによって人それぞれの差が出てきたり、欲求のかたちも違ってきたりする

だけの話ではないのか。そうであれば、非日常と思っていた行為でさえ突き詰めれば、どこか自分の欲求

とリンクする部分が出てくるのではないのだろうか」という疑念でもあった。

そんな風にいろいろ考えているうちに、”緊縛”によって縄に絡めとられた女性たちの姿は、なにかの象徴

のように見えてきたりもする。そして、彼女たちだけではなく、その彼女たちと関わっていく”縄師”とい

う存在があって見えてくる関係性もとても興味深いもののように思えてきた。



”関係性”というキーワードは、SMの世界では重要な要素であることは、ちょっとこの世界を覗いてみる

とわかってくる。はっきりとした立場の違い、役割分担が決まっていて、この世界に入るためには、まず、

どちらかの立場を選ばなくてはいけない。それは、”緊縛”された体のように、自らの立場に制限を加え、

自由を奪われた身になっていくのと同じであろう。

しかし興味深いのは、立場をえらんでもその役に入り込むきっかけを与えるのは、本人ではなく相手があっ

て成立するということである。お互いの関係性がわかりやすく信頼できる相手であれば、安心してその役割

に没頭できるのだ。

この世界では、一見日常とは違う事態が起こっているように見えながらも、信頼関係がなければあのような

濃密な世界は成立しない。意外にも、女性と縄師との関係は納得ずくのゲームということになるらしい。



彼らは、のっぴきならない状態に自らを置き、自分の意志が及ばないようにする。そして、あとの展開は

縄師に委ね、彼女たちはどこまでも突き進んでいく。縄師がいくら扇情的なスタイルを強要したとしても、

それはさらに突き進んでいくきっかけを与えているにすぎないのだ。”NO FUCK”である限り、クラ

イマックスはやってこない。ただ、のぼりつめていくだけである。

しかし、そんな状態がいつまでも続くわけがなく、そのままであれば彼女らは、オーバーヒートを起こす。

それをOFFにするきっかけを与えるのもまた、縄師の役割でもあるのだ。



快楽は人を無防備にさせる。今まで踏み込んだことがない世界であっても、快楽という切り札をもたされた

とたん、いつの間にか飛び込んでしまっているものだ。彼女たちは、いったんスイッチの入れ方がわかれば、

不安や恥ずかしさなどを克服できるすべを身に付けてしまう。縄をかけられればもうゲームは始まってしま

うのだ。ましてや、縛られることによる苦痛は感覚的にも強い反動となって、かなりの刺激にもなるはずで

あろう。

そして、それは縄師のコントロールのもと、一見強引なやりとりが行われているようでいて、その行為は

お互いの微妙な駆け引きの上に成り立っているのだ。

と、ここまで”緊縛”というものを見守ってきて、最初のころに気になっていた”苦痛と快楽”というキー

ワードの裏側がなんとなく読めてきたように感じられる。「なるほど、苦痛は快楽を得るためのきっかけに

もなり得るのだ」という感覚の逆転。

そして、極端な話かもしれないが、”奴隷”となり自らの意志を放棄することは、もしかしたら”自分”と

いう狭い世界から開放されるための”個人”という枠を壊すかなりラディカルな方法であるかもしれない。

そこから、通常の意識を一切捨て去ってしまった瞬間に、立ち上ってくる別人格。それが引き出された時に、

彼女らのエネルギーは責めている側の縄師をも翻弄する。

つまりサディストとマゾヒストの関係が反転しているように見えてくるのだ。



この様子は、通用の人間同士の間にも生まれる力関係と見なしてみると、結構興味深いものかと思われる。

私たちが普段いろいろな状況の中でいろんな人間と接する場合、瞬間的に自分と相手の距離を測るものだ。

その時感じた印象で、様々なよりとりや駆け引きなどが生じる。そして、第一印象からだんだんつき合って

いくうちに相手の意外な面が見えてきた時、引き込まれたり拒絶したりというそれまでとは違った反応が起

こってきたりする。それは、恋愛もしかりである。

SMの世界で行われているやりとりも、実はそのような駆け引きの延長上にあるのだろう。そして、その

やりとりは撮影していくうちに見えてくる、彼女たちのいろいろと変化していく表情にも現れてきて、実に

おもしろい。縄師の仕掛ける行為や、縄で身動きがとれない不安定からくる緊張感、そしてその後にくる

恍惚の表情、それから縄によって魂の一部でも絞り取られてしまったかのような、開放された時のけだるい

感じ。

まさに、”緊縛”とは、かなりダイナミックな人間同士の交流、特に男女の関係性が凝縮されたライブ・パ

フォーマンスなのだ。



1998年 高橋ジュンコ

「TRANS BODY BONDAGE」テキストより








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